鈴木 將央

駐車場になるなら、と継いだ蔵。ある言葉をきっかけに「オール富山」に乗り出す|玉旭酒造 玉生貴嗣さん

2017/05/05

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全国には約1500社もの酒蔵があることはご存知ですか?そのなかでも東京で飲める日本酒はごく一部。まだまだ知らない酒蔵さんがたくさんありますね。

私たちは「どんな人がどんな思いで醸した日本酒か知って飲む。すると日本酒はもっと美味しくなる。」と信じています。

そこで蔵元さんへインタビューを始めました。今回は、富山県・玉旭酒造の社長の玉生 貴嗣(たもう たかつぐ)さん。伝統を重んじる蔵で、日本酒の持つ可能性を活かそうと奮闘するエピソードをご紹介します!


 

駐車場になるんだったら…。子どもの頃立ち入り禁止だった蔵に足を踏み入れる

——どのようなきっかけでお酒を造られるようになったのですか?

1997年に先代が亡くなられて、戻ってこいと言われたんです。

——もともとご実家が酒蔵だったのですね。子どもの頃に蔵で遊んだ思い出などはありますか?

それが全く無いんです。というのも、立ち入り禁止だったんですよ、子どもも女性も。

——女性もですか?厳しいですね。

女人禁制だったんですよ。昔からだと思います。電話がかかってきて女性が受けても、遠くから叫んでいましたね、「電話ですよー!」って。蔵に近づいちゃだめだから。

——なぜ女性が入ってはいけないのでしょう?

酒蔵に祀っている松尾大社のお酒の神様が女性の神様なんですよね。そこで女性が蔵に入ると女性同士で喧嘩しちゃうから、入るなと言われてきたそうなんです。それを守ってきたんですね。

——へえ、はじめて知りました。

子どもの頃の唯一の思い出としては、たくさん集まってくる空瓶の王冠を小学校の友達と一緒にコレクションしていたことですかね。色んな銘柄が書いてあって、「珍しいのゲットしたぞ!」みたいな。

——いいですね、かっこいいのありますもんね!

そう。昔のキン肉マン消しゴムとかビックリマンシールとかを集める感覚ですね。それでみんなで遊んでたっていうくらいかな。

——ご実家には何歳頃戻られたのですか?

24、25歳のときですね。それまでは全然お酒と関係のない業界に行っていました。

——そうなのですね。前から継いでくれと言われていたのですか?

いえ、12代目の親父が、その代で蔵をたたんで駐車場にしようと思っていたので、継いでくれとは一言も言われませんでした。なので変に期待を持つこともなかったですし、プレッシャーもなかったですね。

——駐車場ですか!

そうなんです。それで先代が亡くなって、もし戻ってくるなら修行する間とそのあとを含めて5年間くらいは頑張って酒蔵として商いを続けておくからと言われて。それ以降は駐車場にするのも、酒蔵を続けるのもお前の自由だと言われました。じゃあ、戻ろうかなと。

——やっぱり蔵が終わってしまうことは嫌だなと?

そうですね、生まれ育った場所が駐車場になるのもどうかなと思ったので。それで「3年間は勉強してこい」と言われて、1997年から3年間、広島の醸造研究所に行きました。
 

修行して感じた日本酒の可能性。富山ならではの酵母の開発へ

——修行中はどんなことを学ばれましたか?

広島の3年間で酒造りの基礎と同時に、難しさや楽しさを学びました。でもその期間中に得られた最大の気づきは、「日本酒の可能性を感じたこと」。自分のアイデアや工夫一つで日本酒はものすごい化ける可能性のある商材であり、アイテムなんだなって思いましたね。

——造りから見てということですか?

もちろん造りの観点からもそうなんですが、それだけでなくラベル、デザイン、コンセプト、売り方など、様々な面でそう感じました。でもその当時は、無限の可能性があるなと感じてはいましたが、具体的にどんなことをしようかとかはまったく考えていませんでした。

——なるほど。帰ってきたとき蔵はどんな感じでしたか?

2000年に私が戻った時は能登杜氏さんが3、4人蔵人さんを連れて酒を造ってくださって、酒造りが終わったら帰るっていう、昔ながらのシステムの約100石の小さな酒蔵でした。

——とっても伝統的。

はい。13代目の私の代まで、蔵元が酒造りに携わったことは一回もなかったようです。

——経営と造りが完全に別々だったのですね。

そうですね。富山に戻ってから3、4年くらいは能登杜氏さんのお手伝いをしながら、今までの玉旭としての酒造りを勉強させていただきました。そんな時、杜氏さんが身体を壊されたんですよ。そのタイミングで、未熟ながら私が引き継ぐということで杜氏になりました。蔵人さんにはそのまま来てもらって。

——杜氏になろうと思って、すぐになれるものなのですか?

修行時代を入れて6、7年ありましたからね。でも自分が杜氏になってから画期的に変わったことはほとんどなくて、今までやってきたお酒造りをそのまま引き継いで造っているだけでした。

——先代と同じように。

そう、たいしてこだわりもなくて。お酒になればいいやみたいな感覚でしたね、味さえ変わらなければ。今まで守ってきたこのアイテムはこういう味、このアイテムはこういう造り方をしたら大体はこの味になるんだろうなって。

——なるほど。

でも6年くらい経ったとき「あれ、3年間修行して気づいたあの可能性って、こんなものじゃないぞ」「ただレシピ通りに造ることが、俺が思った可能性じゃない」って気がついたんです。そこで修行中に勉強していた清酒酵母の開発をしようと。

——酵母ですか?

そう。広島の醸造研究所では冬場は酒造り、夏場は酒粕の効能とか酵母の開発とかを学びました。その経験を積んできた自分が杜氏兼経営者になったんだから、もっとできることが山ほどあるんじゃないかと。

——そうですね。

せっかく富山の地酒として酒造りをさせてもらうんだから、富山ならではの酵母を開発できないかなと思って。そこで、広島で培った酵母の開発の技術を活かし、富山オリジナル酵母の開発に踏み出しました。清酒酵母は花の花粉からも作れるんですよ。それで富山の花に着目し、開発をはじめました。

——そうなんですか?そういえば桜とかありますよね。

そうそう、色々あるんです。そこで富山ならではの酵母を開発するならば、と二つに着目しました。一つは富山といえばチューリップ。だからチューリップの花粉からチューリップ酵母を作ろう。もう一つは富山といえば北アルプス立山連峰。その高山植物からできないかっていうところで、その二つを開発しました。

——開発しちゃったんですね。すごい…!

富山ならではの酵母を開発したっていうのが修行中に感じた可能性の第一弾ですね。ステップ1。
 

目の前のお客さんを二度とがっかりさせたくない。本物の富山のお酒造りに乗り出す

——ステップ1って、まだあるのですか?

はい。次のステップは技術面というよりも、私の地酒造りに対する考え方の根底から見直すきっかけとなったエピソードがありまして。

ある日、ご婦人がうちの酒蔵にお土産用としてお酒を買いに来られたんです。大吟醸を手にレジにいらしたときに「ちなみにこの大吟醸、お米はなに?」と聞かれたんです。精米歩合40%の山田錦、とっても香りが高いんですよ、値段も高いですけどなんて冗談を言ってお渡したら「あらそう、じゃあ楽しみだわ。ちなみに、どこのお米?」って聞かれて。もう自信満々に、「兵庫県産の特A地区の山田錦を使いました」ってお答えしたんです。

——いいお米ですもんね。

そしたら「じゃあいらないわ」と棚に戻されたんですよ。その方は兵庫県からいらしていて、「うちの近所じゃないの」って。私は富山の地酒をお土産に持って帰りたくてここに来たのに、私の地元のお米で造っているならいらないわって言われて。もうショックでショックで。

——なるほど…。

富山の地酒として販売しているのに、がっかりさせてしまったことが本当に申し訳なくて。それで次の年から、酒米を100%富山県産にしました

——次の年!早いですね!

あまりにも衝撃的だったので。それまでは鑑評会で金賞を取ろうと思って兵庫県産の山田錦を購入していたんですけど、鑑評会で入賞することよりも、自分が生まれ育った本物の富山のお酒を造る方があるべき姿だなと思ったんです。それでもいいと鑑評会に出品することを諦めて、酒米を変えたっていうのがステップ2。

——酒米を全て富山産に。まだありそうな予感が…

実はステップ3があって、まだこのとき蔵人さんは能登からいらしていたんです。それでは「オール富山」じゃないということで、富山県の人にお願いをして、人も、水も、米も、富山県産にしました。そうじゃないと本物の富山の酒じゃない。富山のお酒として召し上がってもらうんだったら、胸を張って「オール富山」っていうものを造らないとって思ったんですよね。

——徹底的にこだわりましたね!

はい。その取り組みをしてからは、なんだか自分の中でモヤモヤしていた部分が取り除かれた気がして。それからというもの、県外の方々にも自信を持って提案できるようになりました。

——確かに、全部富山ですよ、って言えますからね。

同じオール富山でも人任せのオール富山ではなく、自分自身も蔵の中で汗をかいているので、本当に自信を持って出荷しています。特に県外のお客様には、今まで以上に胸を張ってお届けできるようになりました。そしたらおのずと結果にもあらわれて、10年間で県外出荷が30倍になりました。

——え!すごい、その3ステップで。

そう。最初のご婦人のお話の時期からですね。生産量も戻ってきたときの100石から倍になって、今はようやく200石くらいになりました。

——目の前のお客様のお声を反映して、その結果を得られたということは、やっぱり求められているということなのですね。

そうですね。「衰退していた蔵の過去とお客様のニーズは変えられなくても、蔵自身と蔵の未来は変えられる」と信じています。酒蔵だから、日本酒を造っているからというだけでなく、どんなものづくりをしている会社でもポリシーを持って突き進んだら、必ず何かついてくるんだなと、自信を持って思います。
 

「美味しい」で終わらない、「このお酒が造られたところに行ってみたい」と思ってもらえるものづくりを

——3ステップで成功して、今新たに挑戦していることなどはありますか?

3年前から自分で酒米作りをはじめたんです。その量をもっともっと増やしていきたいなと思っていますね、これからの展望として。

——すごい!今はどれくらいですか?

まだ全体の300分の1、いや500分の1くらいしかないですね。いつかはそれを100%にできるようになれればいいなと思いますが、今はなかなかね。

——並大抵の努力じゃないですよね。

はい。自分で田植えして育てて稲刈りしたお米で、100%酒造りができればなって。これは絶対にひとりではできないわけですよ。色んな人に米作りから携わっていただいて、みんなで米を育てて、みんなで収穫を喜び、酒を造って、みんなで飲むっていうのを最終的にはやりたいです。

——いいですね!それはご近所のみなさんとかですか?

最初はそうだったんです。3年前米を作り始めたときはご近所の方5、6人だったんですよ。それが今は全国から70、80人。

——え、すごい!

私の想いに賛同してくださって、わざわざ大阪から日帰りで来てくださるお客様もいたり。その方は取り扱ってもらっている酒屋さんなのですが、私と同じ感覚で、店先に並べるお酒だったら、自分が田植えや稲刈りをしたお酒を売りたいと。なので「何としてでも行くから」と夜行バスでお越しいただいて、どろんこになって帰るっていう。

——感動しますね。

はい。今以上に発信して、そういう人たちが増えればなというのが自分の中でのお酒造りの最終的なビジョンです。これと並行して思い描いているビジョンが、出来上がったお酒を召し上がっていただき、「このお酒はどこで、誰が、どういう風に造っているのか」に興味を持っていただいて、富山県八尾町という町に足を運んでくれるような酒造りをしたい。まちづくりというか。

——お酒から町に。

そう。本当に小さくて何もない町だけど、そこに足を運んでもらえるようになって、賑わえばなと。「このお酒美味しいな」っていうだけだとそこで終わるじゃないですか。もう一つ先があるとしても、どこで買えるかしらと思っていただくのが精一杯ですよね。

「どんなやつがどんな空気の中で、どんな思いで造っているのかな」「その空気に触れてみたい。そこの地域に行ってみたい」とまで魂を奮い立たせられる日本酒造りをしていきたいんです。

——わくわくしますね!

もちろん国内だけじゃなく、海外の方がパスポート片手にうちの蔵に来てくれるのが夢ですね。蔵を継がなかったら駐車場にするつもりだったというお話をしましたが、今は、「このお酒はどこで造られているのかな」って来てもらう用の駐車場を造ったろうかなって。

——いいですね、駐車場は駐車場でも、蔵に来る目的で使ってもらうと。

そういう酒造り、ものづくりをしていきたいなと思っていますね。不思議なもんですよね。あの当時は、駐車場にするのが嫌で入った世界なのに、今では違う目的で駐車場を増設したいと考えているんですから。

——夢が広がりますね!何か日本酒に対する思いはありますか?

飲んだことのない人に「あ、日本酒って楽しいね」って思っていただけるような、そんなアイテムにしたいですね。「美味しいね」だけだったら「でももういらない」ってなり得る。飲んでいるときの雰囲気とか、造り手の思いを知って感動するっていうのも全部含めて、飲んだことのない人が「楽しいね、日本酒って」と思っていただけたら嬉しいですね。

——素敵です!
 

おわりに

たたまれる予定だった蔵に「駐車場になるなら」と戻った玉生さんのこだわりの数々がすごいですね。修行中に気づいた日本酒の可能性や、ご婦人の言葉をきっかけに行動するまでの時間がとっても短い!一度決めたら即座に、しかも徹底的に取り組む姿勢に感動しました。

次回は銘柄やラベルの由来など、これまたハッとするようなこだわりが満載です!お楽しみに。
 
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